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二十歳の喪主

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「喪主は次男のMにしてね。遺影はこの写真!イエ~イ!」
亡くなる数ヶ月前に、私は妹から言われていました。Mは今年の1月に成人式を済ませたばかりの若い男の子です。とても内気で、目立つ事が大嫌いです。母がいろんな活動をして、人前に出ることを、すごく嫌がっていました。

「お母さんがM君に喪主をして欲しいと言っていたんだけど、やってみる?」と聞いてみると、Mは即座に「はい」と答えました。
「最後に喪主挨拶があるけど、自分で考えてみる?相談にはのるけど?」と言ってみると、これにも「はい」と答えました。
私は今までのMの事を考えると少なからず驚きました。本当に喪主の大役が務まるだろか。

それからMは兄と二人で、母の棺の側に立ち、涙も見せず、弔問のお客様達に立派に応対しました。喪服を身にまとった長身の二人は、とても凛としていました。

兄弟は、両親の離婚で離ればなれの暮らしをしていました。年に1回くらいは会う機会があったようですが、この時ほど濃密な時間を共に過ごしたことはなかったのではないでしょうか。
若くして母親を亡くすことを、どう受け止めているのでしょう。
二人はいつも一緒でした。二人で出掛け、二人で低い声で話をしていました。

「本日は、お忙しい中 お参りくださり ありがとうございました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
母も 喜んでいることと 思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

このたった二行の挨拶をすることが、二十歳の喪主には、計り知れない緊張と勇気がいったことでしょう。今までのMのことを思えば、私達はただ涙するばかりでした。

「利枝 貴女の息子達は立派に成長しているよ!」
そして、どんなにか、その成長を見守りたかっただろう!と思います。
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by kimiyone-chan | 2012-03-31 09:37 | Comments(4)

本葬・感謝の言葉

本葬の時に、友人の山本さんより「感謝の言葉」を戴きました。
私達の知らなかった妹の姿が、ありありと浮かんでくるようで、逆に山本さんに感謝しつつ、全文を掲載させていただきます。

感謝の言葉 

利枝さん いや身内の方には失礼になりますが 今迄通り 利枝と呼ばせてもらいます。

私が利枝と知りあったのは 深角駅での桜祭りの時でした。 満開の桜の下 利枝がひょっこり現れ 「仲間に入れて下さい 何か手伝う事がありますか?」 その一言から色々な事を一緒に活動する仲間になりました。 利枝はその性格からか、自分が一番前に出る事を遠慮し、お膳立てや他の人を推薦しても、いつも控えめだったね。

今でも忘れられないのが県北を襲った台風で、 高千穂線はもとより、日之影町の役場や民家が大きな災害に巻き込まれて 多くの人達が仮設住宅に住む事を余儀なくされました。 その被災者の人達を励まそうと思案中 そこに入ってきたニュースが 芸能人の萩本欽一さんが宮崎に来ると言う事だった。 あの時後先を考えず二人で考えたのが 欽ちゃんを呼ぼうだった。 欽ちゃんが宮崎空港に最終便で来ると言う事を知り 利枝と二人でアポも取らず宮崎空港へ車を走らせた。 そして 空港で出てきた欽ちゃんを無理やり捕まえ 二人で日之影に来てくれと説得。 でも相手は芸能界の大物 中々返事をもらえなかった。 でも二人とも今更引き下がれない 2人して説得1時間半 最後は利枝の一途さと美貌で欽ちゃんがおれた。 そして 欽ちゃんが日之影に来てくれ 仮設住宅の慰問とトークショウをやってくれた。 でも利枝が頑張って苦労して欽ちゃんを連れてきた事は殆んどの人が知らないと思う。 それを自慢する利枝ではなかったから。 その時一番喜んだ事は そのトークショウで 福田さんを初めとする商工会青年部の人達が、何も言ってもないのに 寒い中黙って駐車場の交通誘導をしてくれた事。 それをいつも感謝していたね。

それに 日之影の町に空き家が多く寂しいからと花を飾る事を思いつき 利枝は空き家の持ち主に許可をとり 人々に呼びかけ 花を飾った。 あの時は宮崎からも応援が来たね。それも 私が死んだら世話する人が居ないからと俺に処分を頼んだけど流石に俺もそれは出来なかった。

 またある時は災害でゴミだらけになった日之影駅や道路を、色んな人に呼びかけ掃除した。誰も利枝が病魔に侵されていたとは気づかなかったと思う 18年も癌と闘い 誰にも言わず頑張り抜いた利枝の行動は称賛に値すると思っています。 また西臼杵に多くの人達を呼び少しでも地域に貢献出来ればと 仕事をしながら 国家資格の旅行業を取り それを生かす日を夢見ていたね。

また 渓谷祭りでは 中学生の希望者を募り一緒にゴミの分別、空き缶の分別を長い間やってきたね。 誰もあの会場にゴミが落ちてない事に気づかなかったと思う。 それでも毎年一生懸命。すすんでやって来た利枝の信念は本当に脱帽です。流石に昨年は体力が落ち出来なかったけど、その思いを滋賀さんが引き継いでくれました。

そんな利枝を支えたもの それは家族だったのです。 いつもお姉さんの事 妹の事 お母さんの事 息子さんの事 的を射た分析でちょっと辛口や皮肉を言っていたけど利枝の眼は笑っていたね。 そこに自分の家族に持つプライドを感じていました。

ある時は 「絶対病気の話は母の前ではしないで」と頼み 心配性の母を気遣って隠し続け 自分が入院した時も自分の事より他人を心配し 「モルヒネで頭がぼーっとしているからメールが変で済みません」とか 高千穂神社の倫太郎君が亡くなった時も 奥さんの心配をしていた利枝。 自分の事より他人を気遣う優しさ たまに自分の病気を覚悟していた言葉の端々。 俺にとって、偉大なる友を亡くした事は本当に残念です。

でも利枝の死は 俺達に色々な事を残してくれました。
自分の信じる事は 真っ直ぐ行動してきた利枝の性格と人望 。ある時は 高千穂線存続の為走り回り 母子家庭の会長として走り回り 家族の為走り回り 俺のイベントの為走り回り 地域の為に走り回った利枝  「少しは休みなさい」と神様がくれた優しさだと信じています。 そして利枝の意志と思いは俺達が引き継いで行きます だから安心してゆっくり休んで下さい。駄目だと思った時は 夢の中で良いので怒って下さい。

最後に 今回一番ショックを受けたお母さんへ 利枝からお母への想いを代わりに伝えます。
お母さん今迄色々心配してくれて有難う 私は家族の想いの中で幸せでした 子供達も立派な大人になってくれました。 今迄生きてきた人生に悔いはありません。 これからもお母さんや家族の中で生き続けますので涙は今日だけにして下さい。
 でも最後に一つだけお願いがあります それは百歳まで生きてほしいと言う事です
何故かと言うと 今から私が見たり聞いたり感じたり出来ない事を代わりにしてほしいのです そして百歳を過ぎ私の所へ来た時 あれはどうだった これはああだったと聞かせて下さい
私はそれを楽しみに待っています。 だから色んな所へ行って 色んな経験を沢山見て感じて来て下さい。 これは利枝が俺に託したお母さんへの遺言です
お母さん ひとつ仕事が出来ましたね 悲しんでばかりいたら利枝さんに怒られますよ 

利枝さん君が愛した深角駅の桜は今も毎年咲き続けています
利枝を知る全ての人達の心に 利枝は生き続けます
だから 今はゆっくり休んで下さい 
利枝に会えた事に感謝です 有難う御座いました
                 永遠の友より 山本栄治
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by kimiyone-chan | 2012-03-26 16:04 | Comments(0)

メソメソ・ゴソゴソ

利枝が亡くなった時、私は母に
「利枝ちゃんは宇宙飛行士に選ばれて、金星の探査に行ったから、お母さんが生きている内には帰ってこないよ。明方と夕方空を見上げると、金星が光っているからね。」と話していました。
しかし、空を見上げるゆとりもなく、時間だけが過ぎ去っていきます。

葬儀から3週間が経ち、皆さんが母の事を心配してくださいますので、
ここで母の事をご報告します。母は メソメソ・ゴソゴソしています。

利枝の事を思い出して、メソメソしているかと思うと、ゴソゴソと何か片付け物をしたりしています。ああしてやれば良かった。こうしてやれば良かった。と涙声で話していたかと思うと、夕飯の用意を始めたり、箪笥の中の整理を始めたり。まだまだ気持ちの切り替えができないでいるのでしょう。私はと言えば、利枝がまだ入院しているような気分です。

ある時、母は友人から
「死んだもんはしかたねっちゃが、あんたがしっかりせんで、どげすっと!」
と言われたそうです。それを聞いて母は、胸から憑き物が落ちたように
「あ、そうだ。しっかりしよう!」と思ったそうです。

でもやっぱり今日も、メソメソ・ゴソゴソしています。
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by kimiyone-chan | 2012-03-19 21:55 | Comments(2)

本葬・弔辞

本葬は2月26日13時よりしめやかに執り行われました。

友人の谷川さんの弔辞に、利枝の人となりがよく表現されていると思いますので、ここに掲載させていただきます。

弔辞
本日ここに謹んで哀悼の辞をささげます。
利枝さん、今、利枝さんのご霊前に立ちながら、私はいまだに利枝さんが亡くなられたという実感を抱くことができません。

私が、初めて利枝さんと会ったのは、平成19年3月だったと思います。母子会の役員改選の時期で、役員候補が5名程、松田さん宅に集められました。その時、「わぁ。きれいな人。」というのが第一印象でした。話も人を引き付ける魅力のある人で「こんなすてきな人が、日之影におったちゃ。この人が会長なら、会計をやっても良いかな。」と思ったのを覚えています。

それから、お付き合いが始まり、会うたびにたくさん話をしましたね。
私達は、色気より食い気で、まずは食べ物のこと。今度、宮崎に行ったら、何を食べようかとか、これはこうして食べると美味しいとか。それから、かわいい子供のこと。自分達の将来のこと。色んな話をしましたが、でも最後は、やはり母子会会員推進の事と活動費のことでした。

あなたはいつも「一人では、何もできないけど、団体でなら権利を勝ち取れる。手当等がなくなれば母子家庭は、大変なことになるので、その為に会員を増やさないといけない。」
と言っていましたね。

有言実行のあなたは、会長になって何人もの若母子を加入させ、母子会を元気づけてくれました。
そして、活動するのに資金が必要だと言って、渓谷祭りで、お好み焼きのバザーを始めたり、物資販売もやりました。

ほんとうに「じっとしちょ連」あなたは弱音を一度も吐くことなく母子会活動の他に、エコ活動、TR存続運動等を続け、尻込みしている私達に「勇気」と「やる気」を与えて下さり、どれ程、助けられた事でしょう。

最後に、子供の話をする時の利枝さんは、本当に優しいお母さんの顔でした。20日程前にお会いした時も「子供達が立派に成長してくれた。」ととても嬉しそうに話してくれましたね。
あなたの子供だから、しっかり前を向いて歩いてくれる事でしょう。これからは「千の風になって」子供さんや私達を今まで同様に温かく見守って下さい。

本当に有り難うございました。そして、お疲れ様でした。
心よりご冥福を祈って、お別れの言葉とします。

平成24年2月26日
日之影町母子会 代表 谷川マユミ
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by kimiyone-chan | 2012-03-17 16:15 | Comments(0)

お通夜

霊柩車が自宅を出る時も、ご近所の方が多数お見送りをしてくださった。車は日之影大橋から役場前や中学校のあった場所を通り、大人経由で高千穂の葬儀場に行ってもらった。

会場はたくさんの生花で飾られていた。弔問客も多数で、利枝の死をこんなに悼んでくださる人々がいらっしゃることに、正直驚いた。息子達も驚いていたかもしれない。
「お母さんすごいね。こんなにたくさんの人達に来てもらって」と言うと
二人の息子共に「はい」と頷いた。

22歳の長男は、離婚によって6歳の時から別れて暮らし、20歳の次男は、思春期の難しい年頃をまだ引きずっている。二人とも親と子としての充分なコミュニケーションがとれていたとは思えない。母親の本当の姿を、偉さを分かってくれただろうか。

住職が、親しかった利枝の事をお話くださった。
「数年前、利枝の同級生が、東京で亡くなって、その葬儀を寺でした時、利枝がてきぱきと取り仕切って立派に友人を弔っていたこと。その姿にかっこいい娘だなと思ったこと」
「自分の体にあう癌の薬ができるのを、楽しみに待っている。と語ったこと」

たみ子夫婦と私の娘二人は、熊本空港経由で、23時ごろ到着した。

それから、母と長男と次男と私とたみ子とで、利枝のそばで夜を過ごした。
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by kimiyone-chan | 2012-03-15 22:26 | Comments(0)

仮通夜

朝の6時過ぎだというのにナオトさんに電話した。
「利枝がだめじゃった。どげしたらいい」
ナオトさんは葬儀社の手配と、お寺と集落の人達への連絡を約束してくれた。利枝の携帯を使って、友人と母子会関係者に利枝が亡くなったことを伝えた。

看護師さんが利枝のからだをきれいに清めて、薄化粧をしてくださった。日向の従姉妹が、白い真新しい肌着と浴衣と着物を持って来てくれた。旅立たせる服装などなんにも考えていなかったので、ありがたく着せてもらったが、なんだか利枝らしくない。そこで私の旅行カバンから茶色のチュニックを出して着せてもらった。利枝好みではないが許してもらおう。利枝の髪はショートカットくらいには伸びていたが、次男の希望でウイッグも付けた。ほんのり頬紅もさして利枝は眠っているようだった。

10時頃には葬儀社からの迎えの車が来て、先生や看護師の方々の丁寧なお見送りをうけて病院を後にした。外は曇空で薄暗く、まだ午前中だというのに、もう夕方ではないかと勘違いしそうだった。自宅にはご近所の人達が集まって出迎えてくださった。昨日の朝から一睡もしていない。羽田でうどんを食べたきりだ。仮眠しなければと思うが眠れない。

近所の方が役場への届け出をしてくださり、私と母で葬儀の打合せをした。母子会活動をしているとはいえ58歳の女性だ。参列者は200名くらいだろうと、中ホールを予約した。御礼のハガキの文面はたみ子が考えて、私の携帯にメールし、私から葬儀社の人にメールして、手直ししてもらった。

長男が青雲橋に着いたのは14:40だった。19時頃に私の長女が帰ってきた。

夕飯は利枝の枕元で、利枝の作った延長テーブルを囲んで食べた。利枝は大工仕事も得意で家のあちこちに利枝の作った物がある。その後同級生をはじめ多くの人達がお参りに来てくださった。お友達からは私の知らなかった利枝の話をたくさん聞いた。友達の面倒もよくみていたようだ。息子達も神妙な顔で聞いていた。

その夜は、母と利枝と私の三人で枕を並べた。長い長い一日がようやく終わった。
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by kimiyone-chan | 2012-03-12 17:29 | Comments(0)

2月23日のこと Ⅱ

22時過ぎに病室に着いた時そこには、母と従姉妹夫妻と本家の従兄弟夫妻がいてくれた。私は利枝の今の姿をあまり見せたくなかったので、本家の従兄弟夫妻がいることには、正直驚いた。しかし、彼らがそばにいてくれることが、どんなに励ましになり、力づけられたかわからない。迷惑をかけたらいけないと思うより、お互い様だと思うことが、大切だと思うようになった。

利枝は酸素マスクを装着して荒い息をしていた。目が乾くからだろうか湿ったガーゼが目にかけられていた。モニターの数値は血圧が68から72くらいを示していた。利枝はもともと血圧が低く100ないくらいだったが、そんなことも姉妹なのに今まで知らなかった。医師の話では、「今は痛みも苦しみもなく、話声は聞こえているので、話しかけてあげて下さい」とのことだった。私達は口々に利枝の名を呼んだ。

次男が到着したのは、24日の0時30分頃だったと思う。すると血圧が114に上昇した。

医師からは「今後、血圧の低下や心拍の乱れがあった時に注射や薬を使うことができますが、どうされますか」と尋ねられた。「延命措置はしないと妹と約束してあるので、だだ静かに逝かせてやって下さい」と答えた。妹はこのお正月に、二人の息子と母と四人で鴨鍋を囲んで和やかに食事をしていた。長男が間に合わないかもしれないが、許してもらおう。気丈にふるまう母を気遣って、日向の従姉妹が家に連れて帰ってくれた。

次男と夫と三人で、利枝の手や足をさすりながら、ふと長男はどうしているのだろうと思った。あれからすぐに帰途についているだろうか。まだ徳島にいるのではないだろうか。午前4時頃「飛行機で宮崎に来なさい」とメールすると、「わかりました」と返信が来た。彼も眠れない夜を過ごしていたに違いない。すると夫が「宮崎・徳島の直行便はないよ」と言う。それから携帯で交通手段を検索してくれている間、たみ子にもメールすると「まず徳島から羽田に飛んで、羽田から宮崎に行くしかない」ということになった。徳島から神戸に行って、新幹線で小倉。それから日豊本線で延岡。より30分早く日向市に着くらしい。

そのやり取りが4時30分頃だったと思う。看護師さんが来て「脈の低下がみられます。すぐにお母さんを呼んで下さい」と言われた。利枝の様子を見ていると、静かに動いていた酸素マスクがすーと動かなくなった。「あ、利枝が息をしちょらん!」
時計は4時45分を示していた。医師が来て死亡を確認したのは、4時49分だった。
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by kimiyone-chan | 2012-03-09 16:36 | Comments(0)

2月23日のこと  1

2月26日は私の末娘の結納の日だった。
それで、帰郷していた妹のたみ子と共に、23日の飛行機で千葉へ行くことになっていた。夫は翌日福岡から羽田へ向かう予定にしていた。

ところが、23日が利枝の転院の日になった。どうしたものかと思い悩みながらも、その頃はまだ利枝の回復に希望があったので、延岡の従姉妹に利枝のことを頼んで、実行することにした。ただし千葉滞在を10日から5日に短縮した。

23日朝熊本空港へ向かう車の中から、従姉妹達に携帯電話をかけ支援を頼んだ。転院先が日向市だったので、日向に住んでいる従姉妹にも、病院で延岡の従姉妹と待合せしてもらうことにした。(この従姉妹たちは父方と母方なので面識はない)

10:40発の飛行機に乗り、羽田に着いたのは13時。そのまま迎えの車に乗り込んで、八街の妹の家へ。13時から14時は、利枝の搬送の時間だったので連絡できなかった。
妹の家に着いた頃、延岡の従姉妹から電話があった。
「利枝ちゃんの様子が昨日と違う!早く帰って来て!」
私はそのまま羽田へ引き返すことにした。たみ子は締め切りの迫った仕事を抱えていて帰ることができない。アシスタントのオータさんも羽田まで送る時間的余裕がない。そこで、羽田空港まで直通の電車のある印西牧の原駅までオータさんに送ってもらうことにした。

北総線の駅から羽田空港へ向かう電車の中で、いろんな事が頭の中を駆け巡った。利枝持ち直してくれ!二人の息子達にはどうやって知らせよう!母にはなんて言おう!電車の中で携帯電話を使うことはマナー違反だが、まず徳島にいる長男にメールを送った。長男からはすぐに返信が来た。

熊本にいる次男からは返信がない。仕事中だし登録してない私の電話にはでないのだろう。心配して仕事が手に付かないであろう妹には、メソメソしていないで仕事をしろ!と渇をいれた。病院の従姉妹からは子供達に連絡は付いたかと心配してくる。次男はどうしよう。熊本延岡間のバスは一日2本しかない。早くても明日の昼過ぎになってしまう。と考えているうちにいい事を思い付いた。夫だ。夫はまだ福岡にいる。熊本で次男を拾ってそのまま日向まで来てもらおう。夫に次男の携帯番号とアドレスをメールして、若い子は登録してない電話にはでないからしつこく電話してメッセージを残すように伝えた。

母にはなんて伝えよう!痛みを取って元気になるために転院したと言ってあるのに、危篤だと伝えて動顛しないだろうか。誰を迎えに行ってもらおう。知ってからの時間はできるだけ短い方がいいだろう。病院にいる従姉妹に迎えを頼むと、今利枝のそばを離れられないから、従姉妹のご主人が家まで行ってくれることになった。日之影の家の前のナオトさんに電話して、今から30分後に母に話すので、迎えが来るまでそばにいてあげてと頼んだ。

その間電車は地下鉄に入り、電波状態が悪くなり、会話が途切れる。しかしこの時ほど携帯電話のありがたさを感じたことはなかった。

羽田発18:30の飛行機に乗り、宮崎空港から日向市駅に着いたのは22:00だった。
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by kimiyone-chan | 2012-03-06 10:12 | Comments(2)

三姉妹の長女であり、三姉妹の母です。


by kimiyone-chan
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